日本刀の名門「宮入一門」
100年の系譜
日本刀の名門として名高い宮入一門。その100年におよぶヒストリーをご紹介します。
◆宮入家に生まれた天才たち
舞台は戦国武将・村上義清の故郷であり、“刀匠の町”として知られる長野県埴科郡坂城町。宮入家の祖先はこの地で古くから鍛冶屋を家業にしていました。
大正2年(1913年)、宮入法廣の伯父であり、後に人間国宝となる宮入昭平(本名:堅一、後に刀銘を行平と改名)が、宮入家の長男として生を受けます。
そして大正13年(1924年)には、昭平の弟であり、後に宮入法廣の父となる名匠、宮入清平(本名:栄三、後に刀銘を清宗と改名)が誕生します。
刀匠を志していた兄の昭平は、20代の時に上京して日本刀鍛錬伝習所で作刀を学び、昭和15年(1940 年)には、新作日本刀展で総裁賞を受賞しています。
戦時中は日本帝国陸軍に指定された刀匠として、軍刀の制作に従事するようになり、坂城に戻って清平と共に鍛刀に励みました。
しかし、昭和20年(1945年)に終戦を迎えると、GHQが日本国内での刀剣作りを一切禁じます。そのため、宮入兄弟は近隣の立科町に移り住み、農耕具などを作る野鍛冶として暮らすことを余儀なくされました。
そうした中、昭和25年(1950年)に日本刀美術刀剣保存協会より依頼を受け、伊勢神宮御遷宮式の式典で用いられる奉納刀を作ることになったのです。
それを機に、宮入兄弟は再び作刀への情熱を取り戻していきました。
昭和28年(1953年)には美術刀剣の制作が晴れて許されるようになり、昭平は昭和30年(1955年)に日本美術刀剣保存協会が主催する第1回美術審査会で、後に人間国宝となる高橋貞次と並んで特賞を受賞。その後4年連続で受賞しています。
一方、弟の清平は30歳目前に結婚し、立科で野鍛冶として独立しました。
そして昭和31年(1956年)には清平の長男――後に宮入一門の風雲児となる異色の天才、宮入法廣が産声をあげたのです。
翌年には法廣の一つ下のいとこにあたる、昭平の息子・小左衛門行平(本名:恵)が誕生。彼も紆余曲折を経て、刀の道に進んでいます。
昭平と清平の妹しずも、後に人間国宝となる刀匠・大隅俊平にこの頃嫁いでいます。
鎌倉時代の相州伝を得意としていた昭平は、刀匠として精力的に活動し、50歳を迎えた昭和38年(1963年)に人間国宝の栄誉に輝きます。
しかし、その後、昭平は作刀に悩み、還暦を過ぎた時に心機一転をはかって刀銘を行平と改名しますが、昭和52年(1977年)に病に倒れ、64歳の若さで逝去しました。
一方、十代の頃から兄に鍛刀を学んだ弟の清平は、昭和42年(1967年)に坂城に戻って作刀に励み、毎日新聞社賞や長野県芸術文化功労賞などを次々に受賞。人間国宝の宮入行平氏を凌ぐ刀匠と評され、坂城町無形文化財にも指定されています。
昭和58年(1983年)には、人間国宝・隅谷正峯に5年間師事していた長男の宮入法廣が父・清平の直弟子になり、相州伝を一から学びます。そして、そのわずか12年後に、法廣は新作名刀展で無鑑査刀匠に認定されました。
清平は晩年に清宗と改名し、平成15年(2003年)に79歳で亡くなるまで、法廣と共に刀の名門・宮入家を支え続けました。
流派を超越した技を有する法廣は、平成22年(2010年)に新作名刀展で正宗賞を受賞したのをはじめ、国宝の復元模造にも挑むなど、宮入一門の異色の天才として活躍しています。
*なお、宮入一門の本家には1940年に「宮入菌」を発見し、ミヤリサン製薬(後にミヤリサン株式会社)の初代社長となった宮入近治博士がいます。
また、宮入昭平と宮入清平の弟の宮入袈裟雄は株式会社ミキモトの宝飾デザイナーを務め、彫金作家として活躍しています。